【連載コラム】20年後の地域戦略を考える


Vol.17
環境という名の磁力

2010.02.10 金子照美(2030.jp編集室 NPO田園社会プロジェクト理事長)
コメント(4)件

いつの頃からか、私たちの社会では、「環境」という2文字が
非常に発熱性の高い言葉になってしまいました。
今や自動車会社や石油メーカーも環境保護を叫ばねばならない時代。
容器を小さくして「ちょびエコ」、より売るために「エコ替え」・・・。
某社の毛筆はナイロン毛で、ラベルに「動物愛護を通して環境に貢献」とありました。

明治以降の近代化、戦後の高度経済成長において、
欧米のプロテスタンティズムとも比肩すべき大いなる底力を発揮してきたのは、
数千年にわたりこの国を耕してきた「農の倫理」であったといわれています。
しかし、それは経済成長という黄金色の太陽にあぶられるや、
あっという間に揮発してしまい、その乾きかけた世の中に、
新しい"社会のタガ"として登場してきたのが"環境"という倫理なのかもしれません。

少し話がそれます。明治期にはおびただしい量の言葉が輸入されました。
このあたりの状況は、柳父章著『翻訳語成立事情』に詳しいのですが、
同著から拾ってみると、「社会」「個人」「美」「恋愛」「存在」「権利」「自由」・・・
といった言葉はすべて明治期に創作された言葉とのこと。
ここで重要なのは、その言葉が意味する"概念"も創作されたということです。
つまり、江戸時代には「社会」「個人」「自由」・・・、という概念がなかったことになる。
色恋沙汰はあっても「恋愛」というロマン主義的な概念はなかった。
藩はあっても「社会」という観念が、侍や町人はいても「個人」という考え方がなかった。

言葉がコミュニケーションの道具として機能するには、共通の概念が必要になります。
しかし、翻訳語はほとんどが新しい概念ですから、当然、そこに知的混乱が発生する。

例えば「天然の鯛」という言い方はしますが、「自然の鯛」という表現はない。
自然保護とは言うが、天然保護とは言わない。
俺の勝手だという意味の「自由」と自由主義経済の「自由」も混同されます。
「彼」「彼女」も訳語ですが、日本語には三人称代名詞が存在しなかったらしく
現在では、恋人を意味する用語に変容してしまいました。

さて、「環境」という言葉も当然、翻訳語ですが、
家庭環境や住宅地の環境といった言葉で日常語として定着するのは戦後、
それも高度経済成長に入ってからのような気がします。
70年代、「公害」は社会的大問題でしたが、「環境」という概念はなかった。

レイチェル・カーソンの『沈黙の春』(1962年)、
ローマクラブ『成長の限界』(1970年)、車の排気ガス規制(1971年)、
環境庁ができたのも同年。
いずれにせよ、「環境」という問題意識が座標軸を形成し始めるのは、ここ3、40年。
とりわけ企業活動において、オゾン層、酸性雨、地球温暖化といった
国際的データで、環境的制約というものを意識し始めたのは
ここ20年くらいの間ではないでしょうか。

ともかくも、このように若い言葉、未熟な概念が、急激にその座標軸を広げ、
強い磁性と高い発熱性を帯び始めたわけです。
「環境」という言葉の前では、黄門様の印籠のように「へぃ」とひれ伏せざるを得ない。

私たちは「環境保護」「自然保護」「生態系保全」も同じような意味で使っています。
しかし、「環境に貢献」とは言うが、「自然に貢献」「生態系に貢献」とは言わない。
「自然を満喫」とは言っても、「環境を満喫」「生態系を満喫」とは言わない。

台風も日照りも、大河の氾濫も地震もすべて自然のなせる業です。
「自然を守ろう」というスローガンには
人間にとって都合の良い自然だけを守ろうという、まことに不自然な意図を含んでいます。
失われた自然を取り戻すというなら、毒蛇や蚊も取り戻さなければならない。

学者が地球環境のことを訴えるのは説得力があります。
絶滅種、オゾン層の破壊、人口の爆発・・・。
しかし、いずれのデータも私たちの実感として捉えられないだけに、
いきおいその危機感は対策としてではなく、論理として増殖し、
毛筆ごときで環境への貢献といった珍妙な屁理屈に化けてしまう。

何か大切な判断基準、人間が生きていくための倫理のようなものが
この社会から欠落しているとしか思えない。
なぜ企業活動によるCO2の排出を「公害」と呼べないのか。

ここで私は、コラム・Vol.15で述べた「数千年にわたり民族が醸成し継承してきた
森羅万象に関する種種の知恵、感覚、知識。そして非科学的という理由だけで
近代文明が侮蔑し、破棄してきた」ものを思い出してしまうわけです。

この国を数千年にわたって耕してきた「農の倫理」。
私は、訳語からではなく、この「農の倫理」から、
もう一度「環境」「自然」といった概念について見なおす必要があると感じているのですが、
・・・・いかがでしょうか。



<ご感想をお寄せください!>



些細な小さすぎる正義、巨大な罪悪。
まさに持続可能で循環型社会にシフトしていく必要性があるということですね。
そのためには、「農の倫理」から見つめなおす。大賛成です。
工から農へ、機械の文明から生命の文明へ。
人類の「真の豊かさ」とは何なのか、その価値尺度を見直す時期に来ているのでしょうね。

2010/02/15 15:11

その通り。企業は公害をまきちらしていることを自覚すべき。
何が地球に優しいだ。

2010/02/12 18:08

「環境」という"ビジネス"をやっている猶予はないと思う。環境問題に対して、人間を減らすという選択肢はありえず、あくまで、人が食べていくための環境保全となるはず。野生動物が田畑を荒らせば、自然破壊と言われても個体数調整はしかたがない。もし万が一、世界的な異常気象、石油経済の破綻により、食糧危機になったとして、野生動物のために、人が飢えるということはないのだから。手付かずの自然は放置するとしても、里の自然は、ほとんどが人の手が入った二次的自然。それをいかに守り、食べていけるようにするかということが、直近の環境問題ではないかと思う。

2010/02/12 12:09

20年以上前、妹の嫁ぎ先の法事に行ったときにまだ、環境とか自然循環とか社会で取り上げられていなかった頃にお坊さんがお勤めを終えた後の講話で、共生ということについてお話いただいたことをはっきりと覚えています。地球上で色々な生物が関わりをもって共に生きているのだから、環境負荷を少しでも少なくする努力が必要だと思います。

2010/02/11 11:16

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